あとがき より
私がこれまで書いてきたとおり、海軍落下傘部隊は、当時なお創設の途上にあったのだが、今次大戦勃発とともに、超急速養成訓練を行うのやむなき状況に立ち至り、訓練装備なお不完全のままに、降下作戦に臨んだのだった。
メナド降下作戦においては、敵飛行場の真っ只中に、文字どおりわずかに拳統一挺と手榴弾数発だけで降下していった。しかしながら、これでも敵に勝ったのである。
もちろん当時の戦勢の大局の赴くところ、敵に本格的な戦意のなかったことも確かにその原因み一つだったには違いないが、落下傘兵の旺盛なる敢闘精神が、何よりも一番大きな勝因であったことは否定できない。
事実、敵に勝っていたのは、この敢闘精神だけだったかもしれない。
また、落下傘降下の実験研究開始以来、安全度100パーセントと称し難い落下傘を駆使して、訓練、研究に従事した数多くの青年には、いかなる刻苦も忍びこれを突破しようとする、満々たる闘魂と、殉国の精神といったものがみなぎっていたのである。
たとえ自己の一身は吹き飛ぼうとも……。
数多くの若人はみなこう願い、こう信じて、青春のすべてをかけて戦ったのである。そして、これらの多くの青年は死んでいった。
懐かしく私の心に甦ってくるのは、これら数多の青年の健気な、美しい姿である。今もなお、私の心を打ち続けている若人の純真無垢な、美しい魂と満々たる闘魂であった。
今は亡きこれらの若人に、私は今、心からなる感謝の真心を献げる。 本文中に出てくる落下傘兵の氏名は、これらの中のごく一部の人でしかない。
個人の戦闘状況の記事について、もっと詳細かつ広範囲にわたりたかったのだが、戦後十有余年、手元になんらの資料を持たぬ現状から、それができなかったことをお断りしておきたいと思う。
純白の落下傘を綴に染めて散っていった多くの落下傘兵の、美しく純なる青春の意気が、闘魂が、時と場所を変えて新しい時代に平和の国造りに、
そして再び誤つことなき正しい方向に、そのバトンが継承される日こそ、その霊魂は永えに安らかな眠りを続けるであろう。 そしてこの小著が、ささやかな手向草の代わりともなれば、私のもって幸いとするところである。 山辺雅男 |
第一章 研究時代
第二章 訓練時代
第三章 メナド降下作戦
第六章 サイパンに散る 海軍落下傘部隊
- ああ亡き戦友よ
- 米軍上陸前の状況
- 玉砕戦
著者略歴
昭和13年
海軍兵学校卒業(66期)。
昭和14年
霞ケ浦空兼筑波空付、海 軍少尉。
昭和15年
横鎮第一特別陸戦隊分 隊長兼 横空付、海軍中 尉。
昭和16年
横鎮第三特別陸戦隊分隊 長。
12月比島ダバオに進出。
昭和17年
1月セレベス島メナド降下 作戦に参加。2月チモー ル島降下作戦参加、 海軍大尉。
昭和18年 木更津海軍航空 隊基地にて待機。
9月サイパン島に進出。
昭和19年
2月ラバウルヘ進出、
さらにトラック島に進出。
昭和20年
3月第四七警備隊分隊長
海軍少佐。
8月終戦。
昭和51年 病没。
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